音楽は必要なものではない

 一昨日が最終日だったオザケンのコンサート「東京の街が奏でる」。どうやら最後の最後に「日常に帰ろう」みたいなことを言ったらしいけど、ああきついなーと個人的に思う。

 なんでかっていうと、自分は初日を見たわけなんだけど、コンサート冒頭のモノローグでBOSEくんが「音楽は必要なものではありません」と言い切るのを聴いているから。もう言葉どおりの意味の、まったく感情が入る余地のない正論そのままだ。

 モノローグは多分オザケン本人が書いているだろうから、その内容はオザケンの考えの通りなんだろうけど、だいたい大意は「音楽は必要なものではない。でも音楽を楽しむ余裕があることはいいことだ」みたいな感じ。まあそりゃそうだ。地震で2万人も死んだ現在の日本では、音楽で勇気を与えたいとか、世界を変えようとか、そういう青臭いことは通用しないというのをよく分かっている。

 でも、コンサートの内容はいろんなことを考えさせられるものだった。まあ、島の漁師の話は、「小さいサークルでは多数決で物事を決めるより、とことんまで話し合って全員の合意を得たほうが、後々不満が出にくいよ」ということだと思うし、ビリーバーについては、宗教に限らず恋愛一途で周りが見えていない奴はやっぱキモイよと思うのだけど。

 決して「今だけ楽しければいい」みたいな享楽的な考えで出来るコンサートではなかったし、表面的な言葉だけで「被災地によりそおう」というものでもなかった。どっちも今の日本ではありがち過ぎて、あのオザケンがやるはずはないけど。

 パルコでやってた写真展も見に行ったら、イスラエルガザ地区を砲撃した夜のコメントがすごかった。「親戚や家族が砲撃されている人たちと、同じ場所で夜を過ごすのはつらい。自分はうさぎの連載を書くしかなかった」という言葉の後ろには、砲撃に怒って街頭に繰り出した人々の声が録音されていた。オザケンの声にも町の人の声にも、なにかをしなくちゃいけないけど、すぐに成果が出るようなことは何も出来ない無力感みたいなものが漂っていた。コンサートはだから、あんな重層的な構造にならざるをえなかったのだろう。楽しい昔のヒット曲と、なんか悲しみをたたえた新曲と、何か違う見方を提示しようとするモノローグと。

 ああアーティストとしてもがいてるな、と今にして思う内容だけど、その場にいるとあまりの情報量の多さに巻き込まれて、なんだかすごいものを見ているな、としか認識できなかった。でもそんなコンサートシリーズも終わりを告げた。オザケンはNYに帰り、また世界中を旅したりしてインスピレーションとなる経験を積み上げるというカッコいい日常に帰り、お客さんたちはまあ、それぞれに震災後だったり仕事だったりの冴えないであろう日常に戻るのでしょう。コンサートでもらった日常を考えるヒントを持って。

 で、なぜ「音楽は必要なものではない」「日常に帰ろう」が自分にとってきついなーと思うのかというと、ここしばらくライフワークとしての仕事の努力を怠りつつ、音楽コンサートやライブ、フェスを楽しみまくってたことを、ちくりとやられた気がするから。すみません、惰性で仕事してました。